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こんにちは。
いま私たちが暮らすこの九州・福岡の地には、かつて日本の存亡をかけた戦いの舞台がありました。
それが、鎌倉時代に起きた「元寇(げんこう)」。
1274年と1281年、2度にわたって中国大陸を支配していた元(モンゴル帝国)の大軍が、日本へ襲来。
その主戦場となったのが、ここ福岡・博多湾一帯でした。
今回は、その元寇の歴史と背景、戦いの跡を感じられる福岡の史跡巡りをご紹介します。
まるでタイムスリップするように、700年前の激動の時代をたどってみましょう!
◆元寇とは?──世界帝国・元が日本を襲った日
鎌倉時代中期。
世界を席巻したモンゴル帝国の皇帝・フビライ・ハーンが建てた国「元」は、朝鮮半島の高麗を服属させた後、日本に対して朝貢(入貢)を要求します。
しかし、武家政権を樹立していた鎌倉幕府(執権・北条時宗)はこれを拒絶。
その結果、2度にわたる襲来が起こりました。
◆第1回襲来「文永の役」(1274年)
フビライは、高麗軍を含む約2万5000人の軍勢を船で送り込み、対馬・壱岐を蹂躙し、博多湾へ上陸します。
日本側は予想を超える兵力と戦法(集団戦・弓・火薬兵器)に苦戦。
しかし、元軍は暴風雨の影響もあり撤退。
日本は辛くも防衛に成功します。
このときの戦訓から、鎌倉幕府は防塁(石築地)を博多湾沿岸に築くなど、再来に備え始めます。
◆第2回襲来「弘安の役」(1281年)
フビライはさらに大規模な軍(東路軍・江南軍あわせて10万人以上)を動員し、再び日本へ襲来。
しかし、今回は日本側が事前に武士団を配備し、博多湾への上陸を阻止。
そして決定的だったのは、暴風雨=“神風”の直撃。
元軍の船団は壊滅し、数万人が海に沈んだと伝えられます。
こうして日本は、奇跡的に大陸からの侵略を退けたのです。
◆元寇の舞台・福岡を歩く|歴史スポットのご紹介
元寇は教科書の中の話ではありません。
実際に現地を訪れると、その爪痕や人々の想いが今も残されていることに気づきます。
【元寇防塁跡(今津・百道・西新など)】
元軍の再来に備えて築かれた石築きの海岸防塁。
現在も福岡市西区今津、早良区百道、中央区西公園などに残っており、当時の防衛意識の高さや、緊迫した空気が伝わってきます。
◾️おすすめ:今津元寇防塁跡(福岡市西区今津)
石垣が海岸沿いに長く続く、保存状態の良い場所
【元寇資料館(西新パレス内)】
元寇に関する出土品や再現模型、古地図などが展示されており、「元軍の兵器」「当時の戦法」などが視覚的に理解できます。
◾️場所:福岡市早良区西新2-10-1(西新パレス内)
入場無料/見学自由
【筥崎宮(東区)】
弘安の役で壊滅した元軍に対し、亀山上皇が国家鎮護を祈念した神社。
楼門には“敵國降伏”の文字が掲げられ、今も多くの参拝客が訪れます。
放生会などの伝統行事でも有名なスポット
◆元寇が残したもの──「神風」伝説とその後の日本
元寇後、日本では“神風(しんぷう)=神が国を守った”という思想が広がり、のちの時代まで強く影響を与えます。
一方で、戦費の増大と恩賞の不公平から、御家人たちの不満が高まり、やがて鎌倉幕府の衰退へとつながる結果に。
元寇は、単なる防衛戦争にとどまらず、武士社会のあり方を大きく揺さぶる転機でもあったのです。
◆まとめ|歴史を“足元から”感じる旅へ
今や世界遺産や古刹、グルメの町として知られる福岡。
しかしこの地はかつて、日本の未来を守るために戦い、多くの人々が命をかけた場所でもありました。
博多湾のさざ波の向こうに、当時の船団の影が見えるような気がする——。
そんな気持ちになる、歴史の現場を訪ねてみませんか?
関連情報まとめ
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元寇防塁跡(今津・百道・西新)
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元寇資料館(西新パレス内)
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筥崎宮(福岡市東区)
アクセス便利:福岡市地下鉄や西鉄バスで気軽に行けるスポット多数!